視覚障害児を育てる親にとって、子どもがどこで学び、どこで育つべきかということはとても大きな問題ではないでしょうか。
特に、視覚障害があると、地域の普通学校で学べるのか、受け入れてもらえるのかという不安は誰しもが感じたことがあるのかもしれません。
視覚障害(弱視)の私を育ててくれた両親も、30年ほど前にこの悩みに直面しました。多くの情報を集め、沢山の人に意見を聞き、最終的には「地域の学校で学んでほしい」と両親は考え、私は地域の幼稚園から大学へと進学しました。
今回は、両親が地域の学校へ入学を決めるまでの道のり、また地域の学校で学んできて良かったことや大変だったことをまとめました。
はじめに
いわゆる盲学校で学ぶことも、地域の学校で学ぶことも、どちらもそれぞれに良い面・大変な面があります。
同じ弱視であっても、それぞれに合った場所や感じ方が違うので、私の例は一つの経験談として、参考にしていただければ幸いです。
盲学校出身だから、普通学校出身だからという一面的な部分だけでなく、その子にとって何が最良の選択肢なのかを考えながら、この記事を読んでいただけると嬉しいです。
両親が地域の学校へ入学を決めるまでの道のり
幼稚園
今から30年ほど前、視覚障害の弱視である私は家の近くの幼稚園に通っていました。その幼稚園は、のびのびと元気に遊ぶことを大切にしていて、毎日ドロドロになるまで遊んでいました。泥団子大会、七夕祭り、手芸遊び、遠足、運動会、幼稚園には沢山の行事がありました。
見えづらい私もどの行事も楽しく参加していました。
その頃の私はまだ、自分の目が見えづらいことについて、あまり理解していなかったように思います。私にとっては、生まれてからずっと見ている世界が全て、他の人よりも見えていなくても自分にとってはそれが全てなので、誰かに何か言われない限り、見え方について深く考えることがなかったのだと思います。
今思えば、見えていないとしても、それをさほど気にしない子どもだったから、たとえやりづらい遊びや集団行動があっても、それをそのまま自然に受け入れていたのだと思います。
先生が子どもたちの前に座って紙芝居を読んでいる情景が思い出されますが、私の視力では紙芝居は見えていたとは思えません。ぼんやりと先生の姿が見えるだけです。それでもかぐや姫を読んでくれたときの先生の感情豊かな声や、子どもたちの楽しげなはしゃぎ声が思い浮かびます。わくわくした気持ちを覚えています。あの頃の私は、見えていなくても、聞こえてくる声や周りの雰囲気を感じ取って、その場の雰囲気を楽しんでいました。
そんな風に、見えないながらもその場を楽しそうに過ごしている私を見て、両親をはじめ周りの大人たちは、ほかの子どもたちと一緒の小学校でもこのままやっていけるだろうと感じたのかもしれません。
最初は、市の担当者から盲学校への進学を勧められたそうですが、兄たちや幼稚園の友達が通う地域の小学校へ進学させたいと強く思った両親は、教育委員会や学校長との面談で話し合いを重ねました。
その結果、地域の小学校に通いながら、放課後に電車で1時間かけて弱視学級のある小学校にも通うことになりました。
入学してから知ったことですが、その小学校にはもう一人、1学年上に弱視児が在籍していました。私にとっても両親にとっても、同じ弱視児の存在はとても大きく、心強い存在でした。
地域の学校でどのように学んだか
両目視力0.01の私が地域の小学校で学ぶためには、様々な環境整備が必要でした。
まず、小学校では弱視児が使用する傾斜机を教室に入れ、最前列の真ん中の席に置いてもらいました。小学校6年間、その最前列の真ん中の席が私の席となりました。
教室の隅っこには、拡大読書器を置いた席を作ってもらいました。拡大読書器に、教科書やノート、答案用紙を入れると全て後ろの人に見えてしまうので、周囲から見えない席の配置の仕方でした。
教科書はボランティアさんによる手書きの拡大写本を使用しました。
黒板の文字を見るときには単眼鏡を用いて文字を読み、手元にあるノートやプリントを書くときには弱視用メガネを使って読み書きしました。細かい作業や読み書きが難しいとき、テストの時間には、席を移動して隅っこに設置してある拡大読書器を使います。その時その時の状況に応じて、勉強する場所や方法を変える、それが私の授業への参加の仕方でした。
国語や算数などの教室での学びは、そのような工夫と放課後に通っていた弱視学級でのフォローのおかげでどうにかついていくことができました。
しかし、体育や理科の実験、社会科見学など、弱視の私にとって見えている人と同じようにこなすには難しく感じる場面も数多くありました。
中学生以降になると、遠近両用の拡大読書器を導入してもらえることになり、今度は教室の最後列の真ん中に読書器を設置してもらって、そこが私の席となりました。
遠近両用の拡大読書器は、黒板の文字が良く見え、ノートへの板書も簡単に出来、小学校の時よりもぐんと勉強しやすくなりました。
試験は別室で1.5時間の延長という配慮をしていただくことで、時間内に問題を解くことができました。
小学校でも中学校でも、このような環境整備や配慮をしていただいたことは、弱視の私が勉強についていく上でとても大切なことでした。
放課後には弱視学級に通って拡大読書器や単眼鏡を使う訓練をしたり、勉強の遅れをとらないようにマンツーマンで分からないことを教えていただいたりしたことで、地域の学校で学び続けることができました。
地域の学校で学んできて大変だったこと
幼稚園までは、見えていなくても雰囲気で遊んで楽しむことができていた私ですが、小学校に上がってからは、大変なことが沢山ありました。
①難しい学習についていくことが大変だった
拡大読書器や単眼鏡、弱視用メガネを使えばどうにかついていくことができる授業もあれば、「見えない」ことで難しく感じる授業もありました。
なかでも、私にとっては、理科の実験や観察が一番の苦痛な時間でした。顕微鏡を覗いても何も見えないし、色の変化を観察しようと言われても変化したかどうかさっぱりわからない、お花や植物、昆虫の観察も、単眼鏡を使っても、細かい部分が全く見えません。
お花が綺麗な様子はわかるし、植物の形もなんとなくわかるのですが、弱視の私にとってはそれらは全て「おおまかな」見え方。細かい部分を良く見て文章にまとめたり、スケッチすることは、とても困難なことでした。
また、社会科見学も苦手でした。動物園では、単眼鏡を用いても動物の様子が良く見えませんでしたし、ゴミ集積所や工場の見学に行っても、全体の様子が良く見えず理解できません。見える子どもたち主体に進むので、なんとなくその場にいてついていくことしかできませんでした。
体育では、鉄棒やかけっこなど一人で運動するものは頑張れば何とかなりましたが、ボール競技などの集団で取り組む授業は苦手でした。ドッジボールでは、見えないから逃げることが下手な私は真っ先に当てられるし、バスケットボールはボールを受け取ることすらできません。
科目の中でも、できることとできないことが明確に分かれていました。
これは30年前の話なので、現代の弱視児の状況とは異なるのではないかと思います。
今なら、理科の実験や観察も、動物園や工場などの社会科見学も、タブレットを使って拡大して観察したり見たりすることができるかもしれません。持ち運び用の小型の拡大読書器も利用することもできます。私にとって困難だったことも、以前よりは補える方法があるのではないでしょうか。
②自分の周囲が自分の世界で、それ以外はあまり見えない
視力0.01の私にとって、自分の周囲にいる人や景色が全てです。それ以外の世界はぼんやりとしているので、何か変化があったとしてもその状況についていくことが難しいです。
運動会や発表会で、自分のそばで動いている人の様子はなんとなく見えても、少し離れたところにいる人の様子は全くわかりません。誰がどこにいるのかも、自分のそばにいる人しかわからず、少し離れてしまえばさっぱり把握できません。
自分のクラスやグループの発表は理解できても、他のクラスやグループの発表は見えず理解できないという場面が多々ありました。
誰がどこで何をしているのか。
遠くにいても見える友達を羨ましく思ったものでした。
③他のクラスの人や他学年の人には理解してもらいにくい
地域の学校に通うということは、自分のクラスの枠にとどまらず、多くの人と出会うことになります。知っている人なら、私が見えづらいことを理解してくれていましたが、私のことを知らない人は、私が見えていると勘違いして誤解を招いてしまうこともありました。
子どもだった私は、そういう状況で自分の目について説明する力がまだなかったので、どうしたらいいかと悩むことがありました。
このように大変なことも沢山あったのですが、地域の学校に通ったからこそ良かったこともありました。
地域の学校で学んできて良かったこと
様々な環境整備や配慮をしていただいた上で、私が地域の学校で学んできて良かったことは沢山あります。
いくつか例を挙げると、
①工夫したり考える力がついたこと。
いくら拡大読書器を設置してもらったり、試験の時間延長をしてもらったりしても、見えている人と同じようにできないことは山ほどありました。どうにか工夫して自分にもできるように考えたり、周囲に自分の状況を伝えるということも、徐々にできるようになっていきました。
これは、学校を卒業して、社会に出てからもとても大切なスキルなので、自然と身につけられて良かったと思っています。
②晴眼者と弱視児の友人どちらもできたこと
地域の学校に通うということは、自分以外に弱視児はほとんどいない環境で育つということです。私はずっと晴眼者の友人に囲まれて遊んだり勉強したりしていました。自分には難しいことを友人たちが簡単にこなしている姿を見て、私もそれをできるようになりたいと努力する場面が多くありました。
両親や学校側が私を特別扱いしなかったので、周囲の友人たちも私の目の見え方をあまり気にせずに見えている子と同じように接してくれました。そのおかげか、視力が弱いと難しいことでも、どんなことでも挑戦してみよう!という気持ちを持つことができました。
見える・見えないに関係なく、出来るか出来ないかに関係なく、まずはやってみる。やってみて難しかったら工夫する。それでも難しかったらその時に辞める。まずは挑戦してみることが大切だと、友人たちと過ごすなかで学びました。
また、弱視学級に通うことで、弱視児の友人たちにも出会うことができました。弱視学級では、上級生や下級生といった年齢の垣根を越えて、お互いに知り合い親子で繋がりを深める機会がありました。そこで出会った友人たちも、皆一生懸命に頑張っていて、勉強の仕方や生活面の工夫など様々な面で刺激を沢山もらいました。
もし弱視学級に通っていなかったら、自分と同じ境遇の人を知ることができず、孤独だったかもしれません。同じ境遇の友人に出会えたことも、私の成長にとってとても大きな力をくれました。
地域の学校に通うことで、晴眼者の友人と弱視児の友人が出来て、大人になってからも彼女たちとの縁が続いていること、それぞれの友人たちからそれぞれの刺激をもらいながら成長できたこと、これが私にとって地域の学校に通って本当に良かったことです。
まとめ
今回は、弱視児だった私が地域の学校で学んできて大変だったこと、良かったことについてまとめました。
私にとっては、苦労が多くても地域の学校に通いながら、弱視学級にも通ってフォローしてもらえるというスタイルがとても合っていました。
繰り返しになりますが、盲学校で学ぶことも、地域の学校で学ぶことも、どちらもそれぞれに良い面・大変な面があります。同じ弱視であっても、それぞれに合った場所や感じ方が違うので、私の例は一つの経験談として、参考にしていただければ幸いです。